KNOW THE LEDGE / MUSIC BREAK - DON LETTS

UNIONを形成する様々なカルチャー、その中でも音楽にスポットを当てて紹介する連載「KNOW THE LEDGE / MUSIC BREAK」。今回は11月1日に自伝映画『REBEL DREAD』が公開されたばかりのDJ/ミュージシャン/映像作家のドン・レッツを取り上げたい。1970年代からロンドンのアンダーグラウンドな音楽シーンでレゲエDJとして活躍し、UKパンクという、人種の壁を乗り越えた革命的なムーブメントの現場にも深く関わっていた生き字引的存在。彼がいなければ、今日のカウンターカルチャーは随分と違う形になっていたかもしれない。



故ヴァージル・アブローが自身のブランド「オフホワイト」で、グラフィティアート界のレジェンド、フューチュラ2000をコラボーレーションの相手に起用したことがあった。2020年春夏コレクションのことだった。
フューチュラ2000の描く、アトミックサークルと呼ばれる円や、現代アート的に抽象化されたカラフルなモチーフ。それらは優れたデザインのひとつとしてファッションに息吹を与えるものであると同時に、ヴァージルにとっては自身のルーツであるストリートカルチャーへのリスペクトを表明する最良の手段であったのだと思う。

ヴァージルと同じく、ファッションを単なる衣服を超えた存在、スタイルやカルチャーから生まれるロマンチックな産物として捉えるデザイナーがロンドンにもいる。ニコラス・デイリーだ。1990年に生まれた彼は、サヴィル・ロウ仕込みの確かな服飾技術に、実父でありDJとして知られるSLYGOの時代や、さらに過去へと遡り、ウィンドラッシュ世代と呼ばれるカリブ海諸国からはじめてイギリスに移り住んだ移民たちのライフスタイル、そこと密接な関係を持って生まれたレゲエやパンクといったユースカルチャー、それにジャズなどのエッセンスをデザインに取り入れた洋服作りで人気を集めている。またコレクション発表の際に行われる、親交の深いミュージシャンを集めたバンドによる生演奏が披露されるイベントも開催の度に話題となり、過去にはシャバカ・ハッチングス、ユセフ・デイズ、コスモ・パイクらが参加していた。
そんなニコラス・デイリーが2013年、当時在学していたセントラル・セント・マーチンズでの卒業コレクション、つまりプロのファッションデザイナーとして踏み出すその第一歩にミューズとした人物。それがドン・レッツだった。イギリスにおける“黒人”と“イギリス人”という存在の二面性についてファッションを通して表現しようと試みていたニコラスは、コレクション発表直後に行われたDAZEDのインタビューでこう語っている。

“イギリスでパンクムーブメントが生まれた頃の写真をリサーチしていた時に、ふと目に留まったドレッドの男が気になったんだ。「彼は誰だ?」ってね。ドン・レッツという名前は聞いたことがあったけど、彼が属していたパンクやドレッドのシーンについて詳しいわけではなかった。ドンはザ・クラッシュと行動を共にしていた、まさにシーンの震源地にいた人だから、コレクションのミューズにするのに最適な人物だと思ったんだ”(When Daley met The Donより)

フューチュラ2000がヴァージル・アブローにとってそうであったように、ドン・レッツもまたニコラス・デイリーにとって彼のクリエイティビティをカルチャーの歴史へと接続するために必要な存在だった。前者がその表現手法から目に見える形で衣服へと落とし込まれたのに対し、音楽を生業とする後者がサウンドトラックの提供やモデル出演という形であったという違いはあれど、それらは同じ意味を持つものだろう。
つい先日、ドン・レッツが自身のSNSでフューチュラ2000とのツーショットを投稿しているのを見て、ふとそんなことが頭に浮かんだ。



1956年にロンドンで生まれたドン・レッツが、カウンターカルチャーの歴史にはじめて登場したのは1975年のことだった。マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドによるブティック「レット・イット・ロック」に感銘を受けたジョン・クリヴィーヌがオーナーとなってオープンしたアパレルショップ「アクメ・アトラクションズ」のマネージャーを務めていた彼は、セックス・ピストルズやザ・クラッシュの面々をはじめとする、ショップを訪れるパンクスたちにレゲエやダブを聴かせていたという。

その後も、UKにおけるパンクムーブメントの拠点となったナイトクラブ「ロキシー」でのDJや、ザ・クラッシュのミック・ジョーンズと組んだグループ「ビッグ・オーディオ・ダイナマイト(BAD)」の活動、映像作家/映画監督として手掛けた史上初のパンクドキュメンタリー『PUNK ROCK MOVIE』(1978年)やザ・クラッシュ『London Calling』のMV(1979年)など、多岐にわたる彼の活躍はUKをはじめとする世界中のカウンターカルチャーの発展に貢献するものとなっていく。21世紀に入ってからも、ザ・クラッシュの軌跡を追ったドキュメンタリー『WESTWAY TO THE WORLD』(2003年)でグラミー賞を受賞した他、前述したニコラス・デイリーのエピソードからも分かるように、世代を超えて多くの人々に影響を与え続けている。

自伝映画『REBEL DREAD』のタイトルが示す“反逆のドレッド”とはまさしく彼を形容する言葉に他ならない。ドン・レッツという男を、アイコニックな風貌だけで知った気になってはいないか?そう問いかけるかのように、本作は彼の人生と関連付けながら、イギリスへの移民流入を激しく非難した悪名高い「血の川の演説」(1968年)や、移民に対する不当な拘束と誤った強制送還を引き起こした「敵対的環境政策」に端を発する政治スキャンダル(2018年)といった、イギリス社会が抱え続ける問題にも焦点を当てている。

彼はなぜ闘い続けているのか?その歴史と理由を知るべきなのは、きっとこの記事を読んでいる人たちだ。サウンドシステムのスピーカーはこちらに向けられている。「ステューシー」が本作品をサポートしているのも、きっとそうした理由からだろう。




TEXT:YOHSUKE WATANABE (IN FOCUS)

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UNIONを形成する様々なカルチャー、その中でも音楽にスポットを当てて紹介する連載「KNOW THE LEDGE / MUSIC BREAK」。今回は11月1日に自伝映画『REBEL DREAD』が公開されたばかりのDJ/ミュージシャン/映像作家のドン・レッツを取り上げたい。1970年代からロンドンのアンダーグラウンドな音楽シーンでレゲエDJとして活躍し、UKパンクという、人種の壁を乗り越えた革命的なムーブメントの現場にも深く関わっていた生き字引的存在。彼がいなければ、今日のカウンターカルチャーは随分と違う形になっていたかもしれない。



故ヴァージル・アブローが自身のブランド「オフホワイト」で、グラフィティアート界のレジェンド、フューチュラ2000をコラボーレーションの相手に起用したことがあった。2020年春夏コレクションのことだった。
フューチュラ2000の描く、アトミックサークルと呼ばれる円や、現代アート的に抽象化されたカラフルなモチーフ。それらは優れたデザインのひとつとしてファッションに息吹を与えるものであると同時に、ヴァージルにとっては自身のルーツであるストリートカルチャーへのリスペクトを表明する最良の手段であったのだと思う。

ヴァージルと同じく、ファッションを単なる衣服を超えた存在、スタイルやカルチャーから生まれるロマンチックな産物として捉えるデザイナーがロンドンにもいる。ニコラス・デイリーだ。1990年に生まれた彼は、サヴィル・ロウ仕込みの確かな服飾技術に、実父でありDJとして知られるSLYGOの時代や、さらに過去へと遡り、ウィンドラッシュ世代と呼ばれるカリブ海諸国からはじめてイギリスに移り住んだ移民たちのライフスタイル、そこと密接な関係を持って生まれたレゲエやパンクといったユースカルチャー、それにジャズなどのエッセンスをデザインに取り入れた洋服作りで人気を集めている。またコレクション発表の際に行われる、親交の深いミュージシャンを集めたバンドによる生演奏が披露されるイベントも開催の度に話題となり、過去にはシャバカ・ハッチングス、ユセフ・デイズ、コスモ・パイクらが参加していた。
そんなニコラス・デイリーが2013年、当時在学していたセントラル・セント・マーチンズでの卒業コレクション、つまりプロのファッションデザイナーとして踏み出すその第一歩にミューズとした人物。それがドン・レッツだった。イギリスにおける“黒人”と“イギリス人”という存在の二面性についてファッションを通して表現しようと試みていたニコラスは、コレクション発表直後に行われたDAZEDのインタビューでこう語っている。

“イギリスでパンクムーブメントが生まれた頃の写真をリサーチしていた時に、ふと目に留まったドレッドの男が気になったんだ。「彼は誰だ?」ってね。ドン・レッツという名前は聞いたことがあったけど、彼が属していたパンクやドレッドのシーンについて詳しいわけではなかった。ドンはザ・クラッシュと行動を共にしていた、まさにシーンの震源地にいた人だから、コレクションのミューズにするのに最適な人物だと思ったんだ”(When Daley met The Donより)

フューチュラ2000がヴァージル・アブローにとってそうであったように、ドン・レッツもまたニコラス・デイリーにとって彼のクリエイティビティをカルチャーの歴史へと接続するために必要な存在だった。前者がその表現手法から目に見える形で衣服へと落とし込まれたのに対し、音楽を生業とする後者がサウンドトラックの提供やモデル出演という形であったという違いはあれど、それらは同じ意味を持つものだろう。
つい先日、ドン・レッツが自身のSNSでフューチュラ2000とのツーショットを投稿しているのを見て、ふとそんなことが頭に浮かんだ。



1956年にロンドンで生まれたドン・レッツが、カウンターカルチャーの歴史にはじめて登場したのは1975年のことだった。マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドによるブティック「レット・イット・ロック」に感銘を受けたジョン・クリヴィーヌがオーナーとなってオープンしたアパレルショップ「アクメ・アトラクションズ」のマネージャーを務めていた彼は、セックス・ピストルズやザ・クラッシュの面々をはじめとする、ショップを訪れるパンクスたちにレゲエやダブを聴かせていたという。

その後も、UKにおけるパンクムーブメントの拠点となったナイトクラブ「ロキシー」でのDJや、ザ・クラッシュのミック・ジョーンズと組んだグループ「ビッグ・オーディオ・ダイナマイト(BAD)」の活動、映像作家/映画監督として手掛けた史上初のパンクドキュメンタリー『PUNK ROCK MOVIE』(1978年)やザ・クラッシュ『London Calling』のMV(1979年)など、多岐にわたる彼の活躍はUKをはじめとする世界中のカウンターカルチャーの発展に貢献するものとなっていく。21世紀に入ってからも、ザ・クラッシュの軌跡を追ったドキュメンタリー『WESTWAY TO THE WORLD』(2003年)でグラミー賞を受賞した他、前述したニコラス・デイリーのエピソードからも分かるように、世代を超えて多くの人々に影響を与え続けている。

自伝映画『REBEL DREAD』のタイトルが示す“反逆のドレッド”とはまさしく彼を形容する言葉に他ならない。ドン・レッツという男を、アイコニックな風貌だけで知った気になってはいないか?そう問いかけるかのように、本作は彼の人生と関連付けながら、イギリスへの移民流入を激しく非難した悪名高い「血の川の演説」(1968年)や、移民に対する不当な拘束と誤った強制送還を引き起こした「敵対的環境政策」に端を発する政治スキャンダル(2018年)といった、イギリス社会が抱え続ける問題にも焦点を当てている。

彼はなぜ闘い続けているのか?その歴史と理由を知るべきなのは、きっとこの記事を読んでいる人たちだ。サウンドシステムのスピーカーはこちらに向けられている。「ステューシー」が本作品をサポートしているのも、きっとそうした理由からだろう。



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