KNOW THE LEDGE / ALL ABOUT CORTEZ

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バスケットボールシューズのAIR FORCE 1がヒップホップと結びついたように、DUNKがスケーターに愛されたように、ランニングシューズのコルテッツがカルチャーと密接に結びついていることを、日本はあまり知らないかもしれない。スウッシュのついたNIKE初のランニングシューズという枕詞がついて離れないのは、同じく日本のオニツカタイガーとNIKEの前身、BRS(ブルーリボンスポーツ)との因果関係にある。つまりNIKEがなぜ始まったか、という歴史を語るには主役級の登場人物であることから、価値のあるヴィンテージアイコンとして奉られてきた。しかし、今ここでコルテッツについて書くには、少し肉付けのポイントを変えた方がよさそうだ。
Text:Masayuki Ozawa

 バスケットボールシューズのAIR FORCE 1がヒップホップと結びついたように、DUNKがスケーターに愛されたように、ランニングシューズのコルテッツがカルチャーと密接に結びついていることを、日本はあまり知らないかもしれない。スウッシュのついたNIKE初のランニングシューズという枕詞がついて離れないのは、同じく日本のオニツカタイガーとNIKEの前身、BRS(ブルーリボンスポーツ)との因果関係にある。つまりNIKEがなぜ始まったか、という歴史を語るには主役級の登場人物であることから、価値のあるヴィンテージアイコンとして奉られてきた。しかし、今ここでコルテッツについて書くには、少し肉付けのポイントを変えた方がよさそうだ。
Text:Masayuki Ozawa



オリジナルのコルテッツ

コルテッツのネーミングの由来は、タイガーコルテッツに遡る。輸入代理店として、日本のオニツカタイガーと契約していたBRSは、アメリカを代表する陸上のコーチであったビル・バウワーマンの優れた知見とひらめきによって会社の価値を高め、すぐにただの販売窓口ではなく、アドバイザーとしてオニツカタイガーのシューズ開発に貢献していた。トラックフィールドではなく、舗装路でランニングを楽しむスタイルが確立していたアメリカでは、ソールのクッション性をいかに高めるかが課題だった。ランナーの足を守るためにバウワーマンはミッドソールをレイヤー、とくにヒールは3層に重ねるアイデアで、柔らかな履き心地を叶えた。タイガーコルテッツの誕生である。その後、BRSはオニツカとの間に生まれた亀裂によって、自社ブランド化を図り、既にアメリカで高評価を得ていたタイガーコルテッツにスウッシュを付けたランニングシューズをプロダクト化しはじめた。

初期はトリコロールのレザー、そしてブルーのナイロンがラインナップ。

とにかく偉大なNIKEブランドのデビューに相応しいネタ?を作ることができたコルテッツは、’70年代のアメリカにおけるジョギングブームの隆盛に追従するように盛り上がった。軽くて丈夫、そして色をナイロンアッパーの登場により「レザーコルテッツ」と「ナイロンコルテッツ」とにセグメントされた。主に後者がランニングシーンの主役となり、レザーはタウンユースとしての役割を担うようになった。ランニングシューズは日々進歩し、新しい機能をもったモデルが年々開発されるも、コルテッツは’80年代までは割と欠かさずカタログにライナップされ、オリジンとしての地位を守っていた。


コルテッツを履いてレースに臨むスティーブ・プリフォンテーン

90年代になると、日本に大きなヴィンテージブームが到来。VやVIによって人気が爆発したエア ジョーダンも、結局は「I」が一番人気なように、NIKEのランニングシューズにおいては、ワッフルレーサーや、オレゴンワッフル、LDVに比べても、誕生が早いコルテッツは別格だった。少なくとも1992年に僕が熱心な古着好きになっていた頃は、既にそういうポジションだったし、95年には映画『フォレスト・ガンプ』でトム・ハンクスが着用する効果的なプロダクトプレイスメントによってマスに落ち、NIKEとイコールの存在になった。ハイテクはエア マックス95、ヴィンテージはコルテッツ、バッシュはジョーダン1かダンクがそのカテゴリの頂点にいて、手に入らない場合はその下位互換を狙うか、復刻で我慢するみたいな図式が、少なくとも僕の中には出来上がっていた。実際、90年代は日本だけで企画されたコルテッツも多く、そうした市場の大きなニーズに応えていたのだと思う。


(左)祥伝社ムック『Boon EXTRA VOL.2』よりコルテッツの特集記事。
(右)ネイビーのナイロンコルテッツはヴィンテージ加工を施した2011年の復刻モデルを所有/すべて著者私物


誕生期のユニークなエピソードはさておき、こうした初期のロングセラーモデルであることは、進化の過程がわかりやすく、愛読していた『BOON』が得意とするチャート作りには格好の商材だった。レザーかナイロンか、1975年に発売された(7色だったと記憶している)大学カラーと、同時期に出始めた高級路線の「コルテッツ デラックス」。ウィメンズ用の「セニョリータ」、ソールの形状が変わったことで表記されるようになった「コルテッツ II」など、コルテッツだけで数々のモデルが存在。ディテールでは、シュータンのタグの表記(筆記体か、ブロック体かetc…)、ヒールのNIKEロゴの角度、シルエットの膨らみ、製造国。こうした時代を判別する細かなキーワードの掛け算方式でコルテッツに日本独自の基準がふくらんでいた。ちなみにネイビー×白のナイロン素材、筆記体ロゴは、僕にとって最高に完成されたヴィンテージ。それがコルテッツより少し若い、’70年代後半生まれの世代が見ていたコルテッツの認識だと思っていいだろう。


コルテッツを着用してブレイクダンスを踊るダンサー。©aflo

2000年代に入るとストリートが隆盛し、ヴィンテージはより趣味性の高いコレクタブルな世界へと没入したところもあり、たまに古着店やオークションなどで掘り出し物を狙うものの、ファッションの中心からは外れるようになった。その時にとても意外だったのは、当たり前だと思っていた日本とコルテッツの関係性は、じつはガラパゴス化していたことだった。2001年、レコード店で働いていた友人の勧めで知った有名な写真集『BACK IN THE DAYS』には、1980年代にコルテッツを履くNYのブレイクダンサーたちの姿がたくさん収められていて、ランナーのためだけだと思っていたシューズがこれ程ヒップホップの世界との親和性が高かったことに衝撃だったのだ。キッズたちは、きっとAIR JORDANが欲しかったのかもしれないが、スウッシュのついたNIKEシューズを手に入れる現実的な予算内に、現行品のコルテッツという選択があったのだと思う。事実、この頃に「LA」の文字が刺繍された、レイカーズカラーのコルテッツをラッパー、もしくはそのファッションを真似る日本のB-BOYがよく履いていた。リーバイスの501XXが最も似合う靴だと信じ切っていたヴィンテージ育ちの僕にとって、ルーズなユニフォームパンツやディッキーズのショーツに合わせる、なんなら筒丈の長いソックスをかませるなど、時代錯誤にもアンバランスにもテイスト違いにも感じたが、アメリカでは既に西海岸のヒップホップから隣り合わせにあるチカーノの文化にまでコルテッツが浸透していることを知って納得したものだ。

ドラッグ、金銭、銃の流入で、’80年代のLAは紛争地帯と化していた。中でも危険なエリアとされていたのが、アメリカでも最も犯罪率が高い都市の一つであるコンプトン。西海岸でも指折りの危険なこのエリアでN.W.A.というヒップホップグループが結成されようとしていた。ちょうど東海岸では、adidasのスーパースターを頭上に掲げてRUN D.M.CやBEASTIE BOYSがラップしていた頃だ。N.W.A.は暴力的な日常を反社会的なリリックで表現するギャングスタ・ラップを確立し、全米中にその過激なサウンドを浸透させたパイオニアだ。そんな彼らにとってNIKEを身につけることはステータスであり、最高のファッションだった。ラップを通してリアルなストリートを表現していた彼らが着るNIKEは、嘘偽りのないストリートで、それに憧れたキッズたちがNIKEを真似るようになっていった。中でもコンプトン出身のイージー・Eことエリック・リン・ライトは、コルテッツ・ラバーで有名だった。その事実をアメリカのNIKEはずっと大切なアルバムにしまっていて、2000年代以降のコルテッツのヒストリーに加えたのである。


(上)6冠を達成した『2017 MTV Video Music Awards』でコルテッツを着用するケンドリック・ラマー。
(下)ケンドリック・ラマーとNIKEのコラボレーションヴィジュアルより。


現代における熱狂的なコルテッツの支持者といえばケンドリック・ラマーだ。彼は2014年からしばらくの間、Reebokと契約していたものの、その前には自身の曲『Control』で「White T’s and Nike Cortez, this red Corvette's anonymous」(白いTシャツとコルテッツと、赤いコルベットがあればいい)と歌うほど、エッセンシャルな偏愛ぶりをアピールしている。2017年にNIKEと契約を交わしたケンドリック・ラマーは、MTVのアワードでコルテッツを履き、45周年に相応しいコラボレーションを発表した。両者のコラボレーションは、既に4作目まで続いている。何が言いたいかというと、彼もまたコンプトン出身のラッパーであり、世代を超えてもコルテッツの魅力がこの街には受け継がれているということだ。スヌープ・ドッグが2019年に発表した『Main Phone』で、PVにもリリックにもコルテッツが登場しているのと、彼がコンプトンの隣町、ロングビーチの出身であることは偶然ではないだろう。



45周年の2017年を中心に、LAをモチーフにした様々なコルテッツがリリースされた。
左はマリア・シャラポワ、真ん中はロングビーチをモチーフにした45周年モデル。右はミスター・カートゥーンとのコラボレーション。


NIKEからのオフィシャルでいえば、2015年にL.A.発のUNDEFEATEDがコラボレーションしたモデルが、歴代のコルテッツでは驚くのほどハイヒートぷりは、Stock Xをみれば明らかな事実だし、2017年には「COMPTON」の文字を入れたコルテッツ45周年のアニバーサリーモデルや、チカーノの彫師であったミスター・カートゥーンことマーク・マチャドが柄を考えたいくつかのコルテッツが発売されている。そしてこの件はあまり関係ないかもしれないが、2018年にマリア・シャラポワのためにデザインされたコルテッツが、LAの街や西海岸の太陽にインスピレーションを得ていたことも、無視はできないエピソードだ(ロシア出身の彼女は、LAに豪邸を建てたばかりだった)。

コルテッツが2022年に50周年を迎えるということは、つまりNIKEの50周年でもある。この特別なアニバーサリーのために用意されたコルテッツのジャーニーが、なぜUNIONから始まるか。その答えはヒストリーにある。LAと関わりの持ち続けた長いストーリーは、ずっと続いている。

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オリジナルのコルテッツ

コルテッツのネーミングの由来は、タイガーコルテッツに遡る。輸入代理店として、日本のオニツカタイガーと契約していたBRSは、アメリカを代表する陸上のコーチであったビル・バウワーマンの優れた知見とひらめきによって会社の価値を高め、すぐにただの販売窓口ではなく、アドバイザーとしてオニツカタイガーのシューズ開発に貢献していた。トラックフィールドではなく、舗装路でランニングを楽しむスタイルが確立していたアメリカでは、ソールのクッション性をいかに高めるかが課題だった。ランナーの足を守るためにバウワーマンはミッドソールをレイヤー、とくにヒールは3層に重ねるアイデアで、柔らかな履き心地を叶えた。タイガーコルテッツの誕生である。その後、BRSはオニツカとの間に生まれた亀裂によって、自社ブランド化を図り、既にアメリカで高評価を得ていたタイガーコルテッツにスウッシュを付けたランニングシューズをプロダクト化しはじめた。

初期はトリコロールのレザー、そしてブルーのナイロンがラインナップ。

とにかく偉大なNIKEブランドのデビューに相応しいネタ?を作ることができたコルテッツは、’70年代のアメリカにおけるジョギングブームの隆盛に追従するように盛り上がった。軽くて丈夫、そして色をナイロンアッパーの登場により「レザーコルテッツ」と「ナイロンコルテッツ」とにセグメントされた。主に後者がランニングシーンの主役となり、レザーはタウンユースとしての役割を担うようになった。ランニングシューズは日々進歩し、新しい機能をもったモデルが年々開発されるも、コルテッツは’80年代までは割と欠かさずカタログにライナップされ、オリジンとしての地位を守っていた。


コルテッツを履いてレースに臨むスティーブ・プリフォンテーン

90年代になると、日本に大きなヴィンテージブームが到来。VやVIによって人気が爆発したエア ジョーダンも、結局は「I」が一番人気なように、NIKEのランニングシューズにおいては、ワッフルレーサーや、オレゴンワッフル、LDVに比べても、誕生が早いコルテッツは別格だった。少なくとも1992年に僕が熱心な古着好きになっていた頃は、既にそういうポジションだったし、95年には映画『フォレスト・ガンプ』でトム・ハンクスが着用する効果的なプロダクトプレイスメントによってマスに落ち、NIKEとイコールの存在になった。ハイテクはエア マックス95、ヴィンテージはコルテッツ、バッシュはジョーダン1かダンクがそのカテゴリの頂点にいて、手に入らない場合はその下位互換を狙うか、復刻で我慢するみたいな図式が、少なくとも僕の中には出来上がっていた。実際、90年代は日本だけで企画されたコルテッツも多く、そうした市場の大きなニーズに応えていたのだと思う。



(左)祥伝社ムック『Boon EXTRA VOL.2』よりコルテッツの特集記事。
(右)ネイビーのナイロンコルテッツはヴィンテージ加工を施した2011年の復刻モデルを所有/すべて著者私物


誕生期のユニークなエピソードはさておき、こうした初期のロングセラーモデルであることは、進化の過程がわかりやすく、愛読していた『BOON』が得意とするチャート作りには格好の商材だった。レザーかナイロンか、1975年に発売された(7色だったと記憶している)大学カラーと、同時期に出始めた高級路線の「コルテッツ デラックス」。ウィメンズ用の「セニョリータ」、ソールの形状が変わったことで表記されるようになった「コルテッツ II」など、コルテッツだけで数々のモデルが存在。ディテールでは、シュータンのタグの表記(筆記体か、ブロック体かetc…)、ヒールのNIKEロゴの角度、シルエットの膨らみ、製造国。こうした時代を判別する細かなキーワードの掛け算方式でコルテッツに日本独自の基準がふくらんでいた。ちなみにネイビー×白のナイロン素材、筆記体ロゴは、僕にとって最高に完成されたヴィンテージ。それがコルテッツより少し若い、’70年代後半生まれの世代が見ていたコルテッツの認識だと思っていいだろう。



コルテッツを着用してブレイクダンスを踊るダンサー。©aflo

2000年代に入るとストリートが隆盛し、ヴィンテージはより趣味性の高いコレクタブルな世界へと没入したところもあり、たまに古着店やオークションなどで掘り出し物を狙うものの、ファッションの中心からは外れるようになった。その時にとても意外だったのは、当たり前だと思っていた日本とコルテッツの関係性は、じつはガラパゴス化していたことだった。2001年、レコード店で働いていた友人の勧めで知った有名な写真集『BACK IN THE DAYS』には、1980年代にコルテッツを履くNYのブレイクダンサーたちの姿がたくさん収められていて、ランナーのためだけだと思っていたシューズがこれ程ヒップホップの世界との親和性が高かったことに衝撃だったのだ。キッズたちは、きっとAIR JORDANが欲しかったのかもしれないが、スウッシュのついたNIKEシューズを手に入れる現実的な予算内に、現行品のコルテッツという選択があったのだと思う。事実、この頃に「LA」の文字が刺繍された、レイカーズカラーのコルテッツをラッパー、もしくはそのファッションを真似る日本のB-BOYがよく履いていた。リーバイスの501XXが最も似合う靴だと信じ切っていたヴィンテージ育ちの僕にとって、ルーズなユニフォームパンツやディッキーズのショーツに合わせる、なんなら筒丈の長いソックスをかませるなど、時代錯誤にもアンバランスにもテイスト違いにも感じたが、アメリカでは既に西海岸のヒップホップから隣り合わせにあるチカーノの文化にまでコルテッツが浸透していることを知って納得したものだ。

ドラッグ、金銭、銃の流入で、’80年代のLAは紛争地帯と化していた。中でも危険なエリアとされていたのが、アメリカでも最も犯罪率が高い都市の一つであるコンプトン。西海岸でも指折りの危険なこのエリアでN.W.A.というヒップホップグループが結成されようとしていた。ちょうど東海岸では、adidasのスーパースターを頭上に掲げてRUN D.M.CやBEASTIE BOYSがラップしていた頃だ。N.W.A.は暴力的な日常を反社会的なリリックで表現するギャングスタ・ラップを確立し、全米中にその過激なサウンドを浸透させたパイオニアだ。そんな彼らにとってNIKEを身につけることはステータスであり、最高のファッションだった。ラップを通してリアルなストリートを表現していた彼らが着るNIKEは、嘘偽りのないストリートで、それに憧れたキッズたちがNIKEを真似るようになっていった。中でもコンプトン出身のイージー・Eことエリック・リン・ライトは、コルテッツ・ラバーで有名だった。その事実をアメリカのNIKEはずっと大切なアルバムにしまっていて、2000年代以降のコルテッツのヒストリーに加えたのである。



(上)6冠を達成した『2017 MTV Video Music Awards』でコルテッツを着用するケンドリック・ラマー。
(下)ケンドリック・ラマーとNIKEのコラボレーションヴィジュアルより。


現代における熱狂的なコルテッツの支持者といえばケンドリック・ラマーだ。彼は2014年からしばらくの間、Reebokと契約していたものの、その前には自身の曲『Control』で「White T’s and Nike Cortez, this red Corvette's anonymous」(白いTシャツとコルテッツと、赤いコルベットがあればいい)と歌うほど、エッセンシャルな偏愛ぶりをアピールしている。2017年にNIKEと契約を交わしたケンドリック・ラマーは、MTVのアワードでコルテッツを履き、45周年に相応しいコラボレーションを発表した。両者のコラボレーションは、既に4作目まで続いている。何が言いたいかというと、彼もまたコンプトン出身のラッパーであり、世代を超えてもコルテッツの魅力がこの街には受け継がれているということだ。スヌープ・ドッグが2019年に発表した『Main Phone』で、PVにもリリックにもコルテッツが登場しているのと、彼がコンプトンの隣町、ロングビーチの出身であることは偶然ではないだろう。



45周年の2017年を中心に、LAをモチーフにした様々なコルテッツがリリースされた。
左はマリア・シャラポワ、真ん中はロングビーチをモチーフにした45周年モデル。右はミスター・カートゥーンとのコラボレーション。


NIKEからのオフィシャルでいえば、2015年にL.A.発のUNDEFEATEDがコラボレーションしたモデルが、歴代のコルテッツでは驚くのほどハイヒートぷりは、Stock Xをみれば明らかな事実だし、2017年には「COMPTON」の文字を入れたコルテッツ45周年のアニバーサリーモデルや、チカーノの彫師であったミスター・カートゥーンことマーク・マチャドが柄を考えたいくつかのコルテッツが発売されている。そしてこの件はあまり関係ないかもしれないが、2018年にマリア・シャラポワのためにデザインされたコルテッツが、LAの街や西海岸の太陽にインスピレーションを得ていたことも、無視はできないエピソードだ(ロシア出身の彼女は、LAに豪邸を建てたばかりだった)。

コルテッツが2022年に50周年を迎えるということは、つまりNIKEの50周年でもある。この特別なアニバーサリーのために用意されたコルテッツのジャーニーが、なぜUNIONから始まるか。その答えはヒストリーにある。LAと関わりの持ち続けた長いストーリーは、ずっと続いている。

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